同志社大学 今出川キャンパス(同志社大学HPより)
同志社大学 今出川キャンパス(同志社大学HPより)

同志社徽章

同志社の徽章

同志社のシンボルマークは正三角形が三つ組み合わされています。
「国」や「土」を意味するアッシリア文字を図案化して生まれました。
その形は「知」「徳」「体」の調和をめざす同志社の教育理念をあらわすものと解釈されています。

同志社の創立者 新島襄は「設立の旨意」に、社会の様々場で活躍する校友が、一国の良心となって輝くことを謳いました。
私たちはその思いを共有し、校友の良心を深めたいとと思っています。
このため、同志社校友会 福島県支部のホームページを開設しました。

同志社の名には「志を同じくする者が集まって作る」という意味が籠められています。
同じ学び舎に集った校友の皆さんの情報交換の場として、親睦の場として、 未だ見ぬ校友の出会いの場として、福島県支部に活気が生まれることを願っています。

 

福島と同志社

襄と八重

新島襄と八重
(同志社女子大学HPより)

福島県と同志社は深い繋がりがあります。
同志社大学の創立者 新島襄の妻 八重は会津藩の砲術師範、山本権八の娘でした。
幕末から明治に大きく時代が変わろうとした時、八重は戊辰戦争の真っただ中にいました。 鶴ヶ城の籠城戦で、八重は髪を切り、スペンサー銃を手に男に交じって銃撃戦に挑みます。
しかし、激しい砲撃の中で鶴ヶ城は落城、八重たちは賊軍の汚名を負うことになりました。
凛とした会津の精神風土の中で育った八重は、時代が大きく動く中で、この試練を乗り越え新しい道を切り拓いていきます。

兄 覚馬を頼って京都に赴いた八重、戊辰戦争のジャンヌダルクから明治のハンサムウーマンといわれる姿がありました。
八重は覚馬と親交のあった新島襄と出会い、同志社の創立に深く関わることになります。

新島襄が八重と出会ったのは学校設立に奔走している時でした。
八重の自由で会津の強い精神性に襄は強く惹かれたといいます。 同志社の設立に向けての二人三脚がここから始まります。 二人の結婚式はキリスト教式でした。京都では初めてのことです。
同志社の中に脈々と流れる自由主義の精神は襄と八重の深い絆を思わせます。


山本覚馬

山本 覚馬

同志社と会津を結ぶきっかけとなったのは八重の兄 覚馬でした。
覚馬は戊辰戦争で捕らわれ、薩摩藩の屋敷に軟禁されていましたが、明治時代に入りその能力と知識が 買われ、京都府に登用されます。
覚馬はその後、京都市議会議員になり、初代議長を務めました。そして、京都商工会議所の会長も努めます。
その間、覚馬は新島襄と結社し、同志社創立者の一人となりました。
襄は覚馬の屋敷に同居し、学校設立の構想を練り、準備を進めています。
襄の熱意と覚馬の支援、それが同志社英学校の開校に結実したのです。
「同志社」と命名したのは覚馬と言われています。

現在の今出川校舎は旧薩摩藩の屋敷があったところです。旧薩摩藩の屋敷は覚馬が幽閉されていたところでしたが、 維新後に覚馬が購入していました。
その場所を、覚馬が襄に譲り、同志社の今出川校舎として現在に至っています。
覚馬は襄が死去した時、同志社の臨時総長に就任しました。
同志社の設立には覚馬の存在が極めて大きいものでした。
こうして、同志社と福島の強い結びつきが生まれ、私たちの同志社があります。