会津若松教会と新島襄、そして同志社

日本基督教団会津若松教会は、1886年5月23日、新島襄が最初の信徒14名に洗礼を授けたことからはじまります。

創立記念日はその5年後の1891年1月22日としていますが、これは教会の自治を重んじる新島襄の考えや組合教会の伝統にのっとり、 自給独立式を行った日を正式な創立としているためです。

新島襄の熱い思いが籠められたの教会、それが、妻、八重と兄、山本覚馬の故郷に建てられました。 そのため会津若松教会の牧師は代々同志社の卒業生が務めます。

 

会津・東北に寄せる襄の思い

「小生ハ明治十五年初メテ会津若松ニ遊ヒ官軍之為メニ陥イレラレタル孤城ヲ一周シ、
又生キ残リタル人々ニモ面会シ、当時ノ有様ヲ聞キ、会津藩人ノ如此モ宗家徳川氏ノ為ニ官軍ニ抵抗シ、
白骨ヲ原野ニサラスモ顧ミサルノ勇気ニハ大ニ感服致シ、其時ヨリ会津人ニ向ヒ非常ノシンパセーを顕ハシ、其レヨリ該地伝道ノ事ヲ主唱シタリ」(『新島襄全集』4巻)

この手紙は1890年1月17日、神奈川県大磯で闘病していた新島襄が新潟・長岡伝道中の時岡恵吉へ送った手紙の一節です。
その直後の1月23日に襄は亡くなり、この手紙は襄最後の手紙となりました。
あまり知られていないことですが、襄が死の直前まで気にかけていたことの一つは会津を含めた東北の伝道でした。 上記の手紙にもある通り、襄は1982年(明治15年)に妻・八重と、横井時雄・みね夫妻(みねは山本覚馬の娘で八重の姪)と初めて会津を訪れ、 それ以来会津の人々にとても親しみを覚え、会津・東北伝道を強く望むようになったのです。

 

会津伝道のきざし

新島襄の東北伝道の夢が具体化し始めたのは1885年の事です。 この年、襄の教え子であり牧師となっていた小崎弘道が東北伝道を試みます。

この話を伝え聞いたアメリカ滞在中の襄は、小崎に数回にわたり手紙を書き送り、 東北伝道は「生平素之宿志」だとして、福島を伝道の一拠点とする考えを詳細に伝えアドバイスをしました。(『新島襄全集』3巻)

小崎は1885年10月に会津若松を訪れ、照井正路工、中村舡造にキリスト教の話をしました。
照井と中村はもともとキリスト教に強い関心を寄せており、 直前の9月に美以美教会(メソジスト)の信徒で白河在住の飯田勇喜に伝道師の派遣を依頼したところで、 小崎の話を聞き益々キリスト教に魅かれるようになりました。

その後照井と中村は、飯田の了解を得た上で、改めて小崎に組合教会から伝道師の派遣を依頼し、 これを受け群馬県の安中教会第2代牧師・杉田潮と、 西群馬教会(現高崎教会)初代牧師・星野光多(星野は襄の教え子ではないが、西群馬教会はどこの教派にも属さない独立教会として設立され、後に組合教会となった)が 会津に伝道にやってくることになりました。

 

会津若松教会の最初の信徒

1886年1月11日に群馬を出発した杉田潮と星野光多は、 会津の厳冬や雪に大変な苦労をしながら一週間後1月18日にようやく会津若松に到着しました。
そして1月21日に会津若松で初めてのキリスト教演説会が七日町一新亭において行われました。 もちろんこのために地元の中村舡造、照井正路工も力を合わせました。
この演説会は23日まで3日間にわたり行われ、初日には300名ほどだった聴衆が3日目には600人にまで膨れ上がりました。
その後二人の宿泊先では隔日で聖書講座も行われ、演説会も場所を変え度々が行われました。

2月19日には星野に変わり、東京麻布教会牧師の長田時行が会津若松にやってきました。 そしてしばらくは杉田と長田、その後は長田が、中村と照井と協力しながら、 市内数か所に講義所をもうけ、さらには喜多方、坂下、野沢、東山、本郷などでも伝道が開始されました。

こうした新島襄の教え子である牧師や地元協力者の働きを受け、襄自身も京都~会津に向かいました。
5月22日に会津若松に到着するとその晩には信仰尋問会を行い、23日に襄は洗礼式・聖餐式を行い、 中村舡造・タカ夫妻をはじめとする会津若松教会最初の信徒14名が誕生しました。 夜には襄は説教会を行い250~260名が集まり、戸外にも入りきれなかった人たちがあふれました。
また24日には最初の信徒たちと記念写真を撮った後、喜多方において説教会を行いました。 その後襄は米沢、福島を経て仙台に行き、翌年開校することになる東華学校(同志社の分校)設立の準備にあたりました。

 

襄の教え子による伝道の継続、八重とのかかわり

その後会津若松教会では山岡邦三郎、東正義、内田政雄、兼子重光といった襄の教え子たちが 代々会津定住の牧師となり伝道を担いました。
特に兼子重光は会津出身で、35年にわたり会津若松教会牧師を務めました。
同志社在校中は八重が敬愛する会津藩主松平容保の嫡男容大の養育係でもあり、 襄の死後も長年にわたり八重との交流がありました。
現在会津若松教会に残る八重の和歌は、兼子の時代に八重から教会に寄せられたものです。

また会津若松教会の関係者に八重の書が伝わっていますが、これも兼子の関係者に伝えられたものです。